まじめな自伝

 物心ついたときには眼鏡をしていた.先天性の障害についてのもろもろはもちろん幼少期には理解していなかったが,他の子はしていないこの眼鏡というものを自分は常につけていなければならない,ということについては不平を漏らしていた気がする.

障害については今でこそ「体のどの部分も強く完全な人間などいない」「生活に支障はなく,これでも十分すぎるほど恵まれている」と淀みなく言えるようになったが,成長過程では少なからずコンプレックスだった.

眼球の震え(眼振)については周りから見て変だとわかる症状なので,指摘されることが多く説明するのが面倒,で,説明すれば今度は相手が先天性の障害だったんだ……と恐縮し微妙な空気になる,その流れ全体がうざったいことこの上なかった(そんな気配りは無用である).もっと気分が悪かったのは,たとえば人の目を見て話をするときに「目が泳いでるぞ」という風にからかわれることとかだ(相手は障害のことなど知らないから悪気はないのだが).そうなることを恐れるあまり,人の目を見て話すことを避けるようになったことも.というかこれは今でもそのままだね.実際的な不便としては,持っている視力以上に物が見づらいくらいのもの.まあ大したことはないのだが,しいて言えば細かく書かれた文字情報(例えば新聞や本)が苦手.目の震えで視界がブレると文字が別の文字と重なって見えてしまい読解が難しいのですね.特に起き抜けや目が疲れているときは震えが激しく,いらだつことがある.

斜視も入ってるが,これは自分で意識し力を入れれば斜視になっていない状態にできるので日頃から目にぐっと力を入れて本来の目の位置に置いているつもりだ.周りからどう見えているのかは聞いてみないとわからないが「あまり気になったことはない」と言ってくれた人がいるので,そこそこの精度のよう.いつも凝視するように目に力を入れていなくちゃいけないので,両親などに「疲れない?」と聞かれたりしたが,俺にとってはこの状態こそがニュートラルであり,慣れきってしまったのであまり不便だとは感じてない.

視野狭窄や立体視力の欠損が実生活においては最も不便.左眼視野の 7 割くらいが使い物にならない上,右目も強度の乱視入りなので,両眼あわせて普通の人の視界の 5 割くらいの大きさの視界になっていると思う(といっても視野狭窄のレベルとしては最も軽いレベルのものだ).物を探すときや車の運転をするときなど,広い範囲に注意を向けなければいけないときに不便を感じる.サイドミラーを見ながら前方を見る,みたいなことは事実上できないので.立体視力も同様に,問題ないときには問題ないが特定の状況下では非常に不便.例えば球技の類は全滅だし,階段を下りるときにも注意が要る.

東京医科歯科にいた当時眼科の権威だった先生に診察してもらっていたらしいのだが,こういった症状が先天性に併発しているということがわかっただけで,治療法などは無いらしかった.ひとつひとつの症状に対して対処的に外科手術などをすることもできるが,併発していることを考えると,そういった手段で直そうとするのは最終手段にしておいたほうが安全,みたいな話らしい.まあ,直すより慣れろで,今では慣れたのでもう直そうとは思っていないし,症状のことを意識することも最近はまずない.まあ,DNA レベルで先天的に起きた障害である可能性があるから,自分の子供にも同じ障害を持たせることになるかもしれない,等と考えると気にならないといえば嘘になるが,考えても仕方のないことだしね.

幼少期(4 歳くらいまで)は東京にいたのだが年齢が年齢なのであまり記憶はない.人並みに恵まれた裕福な家庭とはとても言えず,8 畳のボロアパートに両親,俺,弟の 4 人で住んでいた.お風呂の屋根に穴が空いていて入浴中雨が降っていたことも覚えている.が,まあ育児にはしっかりとお金を使ってくれたらしく幸いひもじい思いをした記憶などはない.むしろ溺愛されていたと思う.夜には母親にたくさんの絵本を読んでもらい,たくさんの童謡を歌ってもらった.

言葉を覚えるのがとても早く,動き回って活発に遊ぶよりも一カ所に留まって何かをしている方が好きだったという.公園に行って俺を砂場に置くと,ずっと砂場で遊んでいる.別に歩いてよそに行くことはできるのに,ほかの遊具には目もくれない.このあたりの傾向はこの頃から十分に俺らしかったようだ.

この頃から既に「こういう時には良い子にしなければいけないんだ」という自律の意識が発達していた.幼稚園では常に言われたことを守り,模範となる行動を取り,先生に望まれる行動・発言を推測して率先して動いた.そのため先生に「良い子」「とても賢い子」と言われていたらしい.自分の記憶としても,毎日緊張して幼稚園に通い,先生という大人に気に入られようとあの手この手を尽くしていた気がする.幼稚園でやるようなことは大体優れてできたし,できなければならない,といつも思っていたから緊張が解けなかったのだ.だから,周りでやんちゃに遊んで叱られたりしている子供達とはちょっと友達になれなかった.

そんな幼少期のスタイルが,引っ越しによって一気に変わることになる.東京という都会から,いきなり神奈川随一といっていい山の中の田舎に移ったためである.都会の幼稚園の型にはまった教育から一転,自由奔放とした方針の保育園の洗礼を受ける.

あれほど自由で過激な教育をしている環境は全国を探してもなかなかないと確信する.時間の区切りはお昼の時間を除けば何もなく,大自然の中,自由に何でもやっていい.それだけなら余所についてもいえることだが,「自由に」「何でも」の次元が違う.おにごっこをして遊んでもブランコで遊んでもいい,とかそういったものではないのだ.ノコギリを持ち出して竹を切って弓を作り矢は枝をナイフで削ってこしらえて的当てゲームをしてもいいし,保育園を飛び出して近くの小川に下りていってアオダイショウを捕まえてきて投げて遊んでその後刃物で惨殺しておままごとの夕食にしてもよかった.雨が降っている中飛び出していって全裸で泥を投げ合ったり泥に潜ったりして汚れた上に擦り傷をしまくって帰ってきてもよかった.むしろそういう活動を推奨していた.園内でおとなしく絵本を見ていようものなら「ちゃんと遊びなさい!」と尻を叩かれ外に放り出される.放任主義というレベルではない.それでも,どこかの業者が放棄していった薄い鉄の板をあつめてきて保育園の近くの丘になっているところに配置し,全長 10 メーターはあろうかというような巨大なすべり台をみんなで(教員の指示・監視は一切無く)作って滑って遊んでいて一人が切り傷を負いまくったときにはみんなで保育園まで運んだし,山に崖登りにいって小さい子が足をケガして泣き出せば上級生がおぶって行軍を続けたりと,小学校に入る前の子供達だけでちゃんと(遊ぶだけとはいえ)世界が回っていた.

服装は夏だろうが冬だろうが服装は半袖半ズボンに裸足というスタイルで固定だった.冬はさすがに寒い(霜柱ができるほど)ので外でたき火をする.着火こそ大人がやるが,その後薪を拾ってきて追加したりといった火の管理は子供たちだけでするし,何を燃やして遊んでもオーケー.竹筒の中に水を入れて熱してお湯をつくったり,焼き芋を作ったり,紙飛行機に火をつけてから投げたり,山に潜ってよく燃える枯れ草を両手に余るほど集めてきてその量を友達と競ったり,とまあたき火ひとつとっても色々遊べた.

だが都会っ子だった俺がいきなりそこに放り込まれたわけだから,すぐにはなじめなかった.どう考えたって一般の幼稚園に通っている子供がすぐに適応できるような環境ではない.だがさすがは子供といったところか,こんな環境にも数ヶ月すれば完全に適応できた.他の子達と一緒に過激な遊びに参加したし,小さい子の面倒もみれるようになった.体はタフになり,運動神経も向上した.今思えば,今までの俺の人生を通して一番充実していたのはそのマッコー保育園での一年半だった.

だがそんな時間が永遠に続くことはなく,卒園するときはあっけなくやってきて,自然と戯れて野生児と化していた俺も,小学生になることになる.小学校にはそこそこ広い範囲から子供が集まってきていたから,そこは自分が慣れたような野性的な人ばかりではない,普通の小学校だ.そしてその小学校には,ちょっとした事件もあって,すぐに行かなくなってしまった.

理由は色々あるけど,要するになじめなかったということだ.小学校というのはつまるところ教室にちょこんと座って良い子にしている場所で,先生の言うことを聞いて先生の機嫌を取る場所だ.そんなことは幼稚園の頃からやっていたし当たり前にできたけど,毎日毎日毎日毎日ずっとそれを続けることに何ら意味を見いだせなかった.つまらない以上に,無意味で時間がもったいないと思った.学校にいじめがあったわけでも,特に嫌なことがあったわけでもない(むしろ自分がクラスでは大将だった)が,そんなわけで行かなくなった.

もちろん両親は学校に行かせようとしたが,俺が必死に行きたくないという旨を話し,それでダメだと「いじめられてる」「お腹が痛い」などの小学 1 年生が思いつく限りの理由を嘘で固めて,学校を拒否した.そしてある日から朝起きなくても学校に行けと起こされることがなくなった.

それからは家にいて本を読んだり,野山で遊んだりして,ごくたまに学校に行ったようだ(このあたり,なぜかあまり記憶に残っていない).そのままずっといられるかと思ったが,2 年間経ったところでまた引っ越しということになった.

母親の実家のある街にやってきて,俺は転校生になった.学校に行きたいとはこれっぽっちも思っていなかったけど,環境が変わったこともあるし,小学校に行かないことが異常であるということも理解してきてもいたので,良い機会だと小学 3 年生からまた学校に通おうと思ったわけだ.

ところが,今度はいじめられた.小学校という場での身の振り方をほとんど身につけないままいきなり 3 年生になったこともあるだろうし,いじられやすい転校生という立場だったこともあるだろう.とにかく今にして思うとよく堪えたなぁと思える過酷ないじめがあって,社会経験がなさすぎてうまい対処もできなかった当時の俺はその状況をどうしようもなかった.本当にいじめられているときに親に「いじめられてるんだ」と相談するのは情けなかったからその手も使えなかった.初めは堪えたけど,やはり辛かったので親には色々言い訳をしつつ学校を休むようになった.完全な不登校ではないまでもかなり休んだ.たまに登校しても,教室には行きたくなかったから図書室などにいた.先生に見つかると保健室にひっぱっていかれ,「相談に乗るよ」といいつつ尋問を受けることになったが,やはりいじめがどうこうと言い出す気にはならなかったから口を閉ざした.先生が目を離した隙に保健室を抜け出し,図書室とかに戻った.担任が登場したりすると色々と厄介で面倒だった.放っておいてくれればいいのに,それが許されない.そして当時の俺が考えても,その担任の力でいじめがどうにかなるとは思えなかったから,もちろん相談する気にはならない.どうしようもないと判断した時には学校を勝手に抜けて帰宅した.後で親に色々言われることにはなるが,とりあえずそれで学校という場での問題からは全て逃れることができたから.ずっと休んでいられるのが一番良かったが,親が心配したし,自分でも小学校にさえまともにいけないのはまずいだろうという意識があったから,葛藤しつつもそんな行ったり行かなかったりの生活が続いた.

ずっとそうしていたわけではなく,一時的には教室に復帰した時期もあった.友達もいないわけではなかった.自己主張が激しくなく,どのグループにも属していないおとなしいタイプの子のみと話をして,放課後はテレビゲームで一緒に遊んだりした.友情のようなものはあまり無かったように思う.会話をする相手,一緒にゲームをする相手,という淡泊な関係だった.

さすがに高学年になるといじめで遊んでいた子達にも分別がみられるようになって,自然といじめ自体はなくなっていった.それでも決して学校は居心地のいい空間ではなかったから,教室にいないことは多かったが.

小学校の卒業が見えてきた 6 年生のときに,このままクラスの人たちと同じ中学校に進学するか否かということについて考えた.そして地元では小学校より中学校の方が柄が悪そうなイメージだったし,今は少し緩んでいるいじめがまた激化することは避けたい……と考えて,中学受験することに決めた.

無事に合格し,クラスのやんちゃ坊主な子達とは違う中学校に進むことができることが決まった.逃げた形だが,これで問題なく中学校に通えるならと思って胸をなで下ろした.

まあその安心も束の間,中学校では同じクラスにこそ尖ったやつはいなかったのだが,上級生の野球部が曲者だった.俺の発しているオーラが良くないのか,また狙ったように俺はいじめのターゲットとなってしまった.それでまた休みがちになった.

だが小学校の時と違ったのは,学校で自分の存在が否定されても,よりどころにできるものが学校の外にできていたということだった.父親のお陰で中学生にして自分専用のパソコンが用意されていたのだ.中学入学当初はインターネット回線は引いていなかったが,雑誌などから入手できる情報だけで当時としてはかなり満足できたし知的好奇心を刺激された.学校でのことから現実逃避し,エネルギーのほとんど全てをパソコンに向けるうち,学校での問題も些細なことに思えるようになった.学校に行ったり行かなかったりしながら,パソコンに向かった.中学 2 年のときにインターネット回線も常時接続で引かれ,知識も中学生としてはそこそこまともなものとなっていた.ネット上での活動を通して自信もついて,中学 3 年の頃には 8 年間あまり続いていた不登校体質をほぼ脱した.

まあ反動で,中学 3 年のときには中二病としての誇大妄想感が最高潮に達し,真剣に自分はスーパーハッカーになれると思って活動していたりした.このような思い上がりが正されることなく放置されたことが,後々に問題になる.

中学 3 年生の後半は非常に憂鬱だった.中学校からエスカレーターで高校に入れるのだが,その代償として高校の中で一番進度が速く難しいコースに入らなくてはいけないことになっていたからだ.勉強がとても忙しくなり,趣味どころではなくなる……そういうイメージだった.今までパソコンに山のように時間を投資してきていたが,それが今後は続かなくなり,せっかく身につけてきたスキルの成長が止まる…….パソコン関連の知識とスキルをアイデンティティの大部分としていた当時の俺にとって,このことは非常に悔しいことだった.だが,避けられないことでもあった.

ちょっとしたきっかけもあって,開き直ることになる.「嫌だ嫌だと思っていても,どうせ勉強をしなくちゃいけないことは変わらない.パソコンスキルを犠牲にする以上,勉強を徹底的にやって将来に生かしてやる!」という具合である.将来立派な人間になれると固く確信していた当時の俺のあり方は未熟もいいところだったが,この一件についてはプラスに作用し,宣言が具体的な行動となった.高校に入ってから猛勉強を始めたのである.

小学校中学校とまともに授業を聞いて勉強しテストで点数を取るということをまったくやってきていなかったから,はじめは不安だった.基礎の抜けももちろん致命的に思われたし,方法論も模索するしかなかった.だが結果的には杞憂で,行動に移してすぐに効果が現れ始め,志望校は早稲田から東工大に,東工大から東大にとあっという間に変化した.今にして思えばこの成長においては環境のおかげも大きかったのだが,とにかく学業面においては一気に優等生らしい位置に立つことになった.

勉強ができるようになると間もなく,学業だけでなくその他の面においても優等生ぶるようになった.中学校まで休んだ日数の方が多いくらいだったのが,高校では皆勤,という一点をもってしてもその変貌ぶりが理解できる.校則は馬鹿らしい細々としたことについても守り,服装も整え,綺麗な敬語を心がけ,熱心に掃除をし,深々と礼をし,宿題は完璧にこなし,委員会の仕事にも力を入れる.憑かれたように優等生を演じ続けた.幼稚園の頃からあった「良い子ぶる」傾向が高校にきてまた発現したということだ.

授業を受ける態度については高校 3 年になってから内職をするなど変化したものの,その他の部分については高校生活中ずっと徹底した.狙い通り,先生達からの信頼を獲得することには成功したし,3 年間ずっと特待生扱いで学費が戻ってきた.

高校の間,積極的に友人と遊ぶようなことはなかったし,基本的にはずっとまじめに勉強を続けていた.家でも中学時代のようにパソコンにたくさんの時間を割いたりはもはやしなくなっていた.勉強の方が優先順位が上だった.こんな禁欲的な生活も,自分は特別な存在で,為すべき事を為すために今こうして努力しているんだと思えば我慢できた.恋愛関係についても,中学校の後半,とあるきっかけで仲良くなった女性との一件から絶望し,もはやほとんど気にならなくなっていたし,妄想の世界に住んでいたから,ほとんどのことは妄想で補うことができた.まだその危険性には気づかないまま,自分のその妄想力さえも自分が特別である証だと思ってありがたがった.

肝心の勉強については結果の割に,常に苦悩していた.思い上がりのせいである.「パソコンスキルを犠牲にするからには,勉強を頑張る」で指しているところの「頑張る」は,模試で A 判定を取るくらいでは達成されて感じなかったのだ.引きずったままの誇大妄想感に支配されていて,現実が見えていなかった.「A 判定なんて当たり前.もっと上を目指せるし,これだけ頑張っているんだからもっと点数が取れないとおかしい」という目的を取り違えたロジックによって,点数についてつねに飢餓感があった.99 点では足りず,100 点を求めた.東大志願者中上位一割では足りず,1 位を求めた.自分ならできると信じてやまなかった.だが,田舎の無名校に通い独学に明け暮れるだけではそこまでの成長はなかなか成し遂げられない.模試で結果が返ってくる度に,また納得の行かない結果だ,と歯ぎしりした.実際には合格できそうなボーダーラインはクリアできているのに,そうとも思えなかった.自分はできるはずなのに,望んだ通りの結果が返ってこない,とその部分に執着しひたすら焦燥感を感じながら勉強を続けた.

結果として,東京大学に合格する.正直言って気が抜ける思いだった.特別であるところの自分ならでは目指せる特別な大学であったはずが,まだ実力の足りない自分が受け,本番で大失敗したというのに余裕で合格していたというのだから.全て自分の作り上げた妄想に過ぎず,東大は普通の大学で,ここまで必死になる必要はなかったのだということに気づくのにその後数ヶ月を要する.

気づくと大学に入っていた.なんだかんだいって気の知れた仲間だった中高 6 年間を一緒に過ごした友人達とはばらばらになってしまい,一人で東京にいて,駒場に通っていた.学業面のみならず人格その他の面においても優秀な人間の集まる特別な大学であったはずなのに,一緒に授業を受ける連中の低脳さといったらなかった.大学に入ってまでクラス内で除け者をつくっていじめもどきの陰口を言っていたりするのに閉口し,東大受験を抜けてきたとは思えない思考力に欠けるやりとりに閉口し,それから自分を見て,自分も彼らと全く変わらないつまらない人間であることに気づいて絶望した.

誇大妄想や特別感がひとつずつ崩れていった.東大のイメージも幻想なら,高校で演じてきた優れた自分という姿も幻想だった.全て,大昔から引きずってきた妄想の延長だったと気づいたわけだ.慌てて,中学時代によりどころだったパソコン関係というアイデンティティにしがみつこうとしてみたが,もはやどのスキルも凡庸なものにしか感じられなかった.中学生にしては評価できたというだけで,大学生にとっては当たり前.そして知らない間に時代も大きく変化しており,1 からスタートするのとそんなに変わりはなくなっていた.

どうして東京なんかに来たんだ? 俺は特別なんじゃなかったのか? 今まで信じてきた事は本当に全部妄想だったのか? そのようなことについて考え込み,そのうち,精神を病んでいくことになる.病んでいるという自覚さえできれば事態はもっと早く解決に向かったはずだが,まだ万能感が残ったまま考え込み始めたのが災いした.自己分析が可能な程度には自分が正常だという仮定の元スタートしては,どうしようもない.結局,気付きまでに 1 年,解決への糸口を掴むまでに 2 年弱の時間がかかった.そんな状態で大学の勉強に手がつくわけがなく,実は他にも色々事件はあったのだが,とにかくあれよあれよという間に降年して今に至る.

現在は,掴んでいると思っている解決の糸口が妄想でないことを祈りつつ,ようやく再スタートを切ろうかというところだと思う.自分が間違っていたと認めることはつらいし,社会的評価が落ちて仕方の無いようなあり方で自分が存在していることを認めるのはもうちょっとつらいが,それでも自分の今後がもうちょっとまともに展開していくなら飲もうと思っている.

精神の問題がそんなに無機的に判断できるとは今でも思ってないけど,少なくとも DSM の記述から勝手に診断するならアスペルガー症候群だし,人格障害として見てもクラスタ B の境界性人格障害,自己愛性人格障害を中心に 6 つくらいのタイプに横断して条件を満たすし,妄想の部分に注目して統合失調症や気分障害だろうという線でいくにしてもピッタリとはまる.まあ,自分の症例にどういう名前がつくかは本質的じゃないのでどうでもいいにしろ,そうやってカテゴライズしようと医者が躍起になるくらいにはメジャーで社会的に問題な精神の問題に類するものを抱え込んでいるということは事実で,行きすぎた自己実現を妄想する前にこの問題をなんとかしないと,立派な人間になれないどころか自立すら難しいだろう.

大体,冷静に考えて高校でちょっと優等生ぶってみせることに成功し,人と違うことができたからといって,そこだけみて俺は大人物になれるに違いない,と思いこんでいるのはわけがわからない.小学校にまともに通っておらず,繰り返しいじめを経験していて,今まで一番多くの時間を共に過ごしたのはパソコン,そういう背景で精神に問題を抱えていないほうがおかしいというものだ.

東大なんかに入ったせいか両親とか周囲の期待というのは無駄にあって,それに対してさらにオーバーアチーブしたい衝動には駆られるけど,自分自身の問題をないがしろにしているとオーバーアチーブどころか転落劇を演じてどん底まで落ちるだけのような気がするから,悪いけどもう少し自分自身のケアに時間を使うよ.

ってな感じで生きてます.